慈恩寺の堂舎と仏像 本堂(国指定重要文化財) 3度の火災に見舞われ、現在の建物は、元和4年(1618)山形城主最上氏により再建されたものです。令和6年(2024)、70年ぶりの本堂屋根保存修理が完成。桃山時代の様式や重厚な茅葺屋根を今に伝えており、圧巻です。 天井絵 本堂外陣の天井には龍や天女が描かれています。また、郷目貞繁筆絵馬などたくさんの奉納絵馬が掲げられています。ぜひ見上げてご覧ください。 ちゅうてつぶっしょうばち 鋳鉄仏餉鉢 (県指定有形文化財) 慶長11年(1606)に谷地の鋳物師によって納められた洗米鉢。この鉢に頭を入れるとボケ防止、若返るといわれています。 山門(仁王門)(県指定有形文化財) 元文元年(1736)建築。三間一戸の重厚な楼門で、棟梁は地元の川越惣左衛門。5月5日の舞楽奉奏の際には、2階が楽屋となり、舞台への橋掛かりが架けられます。 薬師堂(市指定有形文化財) 薬師如来などを祀る御堂。鎌倉時代に現在の本堂より500mほど東の上の寺地区に薬師寺及び聞持院(もんじいん)が建立され、慈恩寺の東院とされていました。薬師寺には薬師三尊と十二神将が祀られ、また聞持院には虚空蔵菩薩が安置されていました。江戸時代初め頃までには聞持院も廃寺となり、寛永13年(1636)、薬師三尊と十二神将は現在の本堂近くに移されました。元禄6年(1693)に薬師堂が再建され、今に至ります。 もくぞうやくしにょらいおよびりょうわきじぞう 木造薬師如来及両脇侍像 (国指定重要文化財) 薬師如来は昔から病気やケガ、心の病などから救ってくださいます。脇侍の日光菩薩と月光菩薩は、昼も夜も問わず私たちをお守りしてくれます。 もくぞうじゅうにしんしょうりゅうぞう 木造十二神将立像 (国指定重要文化財) 薬師如来や薬師如来を信仰する人々をお守りくださいます。頭上にはそれぞれ、干支の彫り物が見られます。十二神将の衣装をよく見ると、金や赤、青などの彩色や文様が見られます。細かいところにも工夫が見られ、仏師の腕や感性が感じられます。 仏像群 慈恩寺には、平安時代から鎌倉時代にかけて作られた傑作の仏像が多数伝えられており、当時の京や奈良で作られた像も数多くあります。中でも、躍動感あふれる木造十二神将立像(国重文)は注目です。これまでに、東京国立博物館とイタリア・ローマに4体ずつ、アメリカに2体が出張展示されました。 三重塔(県指定有形文化財) 慈恩寺の初代三重塔は、慶長13年(1608)に、山形城主最上氏により建立されました。現在の三重塔は文政13年(1830)に再建されたものです。 慈恩寺の文化財 国、県、市により指定されている文化財の数々も慈恩寺の魅力のひとつです。文化財の数としては、国指定が8件、県指定が25件など東北有数の文化財の数を誇ります。 国指定重要文化財 木造弥勒菩薩及諸尊像 制作時期/永仁6年(1298) 本尊弥勒菩薩に、釈迦如来、地蔵菩薩、不動明王、降三世明王を配した五尊として本堂宮殿内に祀られる秘仏です。本尊弥勒菩薩の胎内墨書銘(たいないぼくしょめい)から、永仁6年(1298)9月にこの五仏が制作されたことがわかります。この五仏の構成は国内において例を見ないものです。五仏の構成について、文化庁は次のように見解を示しています。未来仏である弥勒に、過去仏の釈迦と現世仏である地蔵をあわせて過去、現世、来世の三世の救済を願うことから創案されたものであろう。 木造薬師如来及両脇侍像 制作時期/薬師如来像:延慶3年(1310)、両脇侍像:鎌倉時代末期 薬師堂に祀られている薬師如来像は、胎内墨書銘から延慶3年(1310)仏師院保により制作されたことがわかります。仏教の教えでは、薬師如来は東方の瑠璃光浄土の教主であり、阿弥陀如来の西方極楽浄土と相対しています。正式名は「薬師瑠璃光如来」で「大医王仏」とも呼ばれます。人々の病気を治すだけでなく、悩みなど精神的な苦痛までも取り除くといわれ、脇侍の日光・月光菩薩と共に昼夜を問わず、苦しみから救ってくれる仏です。日和田郷の上にあった薬師寺に安置されていましたが、脇侍二尊十二神将とともに、江戸時代初期に慈恩寺境内に移されました。 木造十二神将立像 (附木造十二神将立像<辰、午、未、申>) 制作時期/鎌倉時代(13世紀後半) 薬師堂には薬師如来を守る護法神として十二神将も祀られています。甲冑や武具を身につけた武将の姿は、眼光するどく憤怒の表現にも生彩があり、躍動感あふれる表現となっています。制作時期は十三世紀後半頃と考えられ、この頃の十二神将像の秀作として注目されています。なお、辰神、午神、未神、申神の4体は鎌倉期の古作にならった江戸時代の補作と推定されています。 木造聖徳太子立像 附 像内納入品 制作時期/正和3年(1314)頃 本像は本堂に安置されています。髪を左右に小さく結い、両手で柄香炉を持つ16歳の聖徳太子像です。父・用明天皇の病気平癒を祈った時の姿で、「聖徳太子孝養(きょうよう)像」と呼ばれています。像内部から発見された『血書法華経(けっしょほけきょう)』には、正和3年(1314)に禅宗僧・旨渕が、母の一周忌にあたり写経した旨が記されており、像の制作も同時期と考えられています。 県指定文化財 木造大日如来坐像 制作時期/弘長3年(1263) 本像は三重塔内に安置されています。髻(もとどり)は高く結んで頭髪は毛筋彫り。頭部に金銅製忍冬唐草文をすかし彫りにした八面冠をつけています。両手は腹前で金剛界大日の智拳印を結び銅製の胸飾をつけています。光背の迦陵頻伽(かりょうびんが・上半身が人で、下半身が鳥の仏教における想像上の生物)や透かし彫りも見事なつくりになっています。大日如来の胎内納入経の奥書には、 弘長3年(1263)に常陸国笠間(現茨城県笠間市周辺)の領主であった笠間時朝が小山寺(富谷観音)に納めたとありますが、慈恩寺で安置されるようになった来歴はわかっていません。 木造菩薩坐像 制作時期/平安時代後期(12世紀) 本堂宮殿内に祀られる秘仏で大和座りの可憐な尊像です。その形式や後にひいた裳(下半身に巻きつける着物)の端が風に翻るように刻まれている点から見て、來迎の弥陀の脇侍像であったと推定されます。その左手は明らかに膝上に置かれていた跡があり、右手も同様であったとすると、両手で蓮台をささげる観音菩薩像である可能性が強いと考えられます。 市指定文化財 木造勢至菩薩立像 制作時期/鎌倉時代 本堂宮殿内に祀られる秘仏。頭髪は毛筋彫りで髪は欠失しています。後頭部に蓮華を形どった木製の頭光を竹釘でとめています。右足をやや前に踏み出し、両膝を軽く曲げていくぶん前かがみに立っています。 木造阿弥陀如来坐像 制作時期/室町時代 本像は本堂に安置されています。両手の親指と人差し指をつけて腹前で組む手の形は「弥陀定印」と呼ばれ、阿弥陀如来が瞑想する姿をあらわしています。肉髻(頭頂に一段高く隆起した部分)が低く、髪際(髪の生え際)の中央が下がっています。さらに頬の膨らんだ顔、穏やかな表情や厚みのある衣など室町時代の様式的特徴が各所に確認できます。 このマークが付いている写真は寒河江市教育委員会の所蔵資料です。