慈恩寺

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慈恩寺について

時空を超えて、
慈恩寺の仏像に出逢う…

神亀元年(724)この地を訪れた行基が、一帯を景勝の地であると聖武天皇に奏上。その後、この地に天平18年(746)聖武天皇の勅命でインドの婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)が慈恩寺を開山したと伝えられています。

平安時代になると鳥羽天皇により、天皇のための祈祷を行う御願寺となりました。中世には寒河江を治めた大江氏(鎌倉幕府初代政所別当・大江広元の末えい)により保護されました。江戸時代には、学頭を務める宝蔵院・華蔵院と別当を務める最上院の3つの寺の下に、清僧(出家した僧侶)・修験(山伏)の48坊がおり、さらに雑務を担う一山役人、寺侍や家来などもいる巨大祈祷寺院でした。また、当時の境内は南北5km・東西1kmありました。

明治時代に御朱印地がなくなったことが影響し、現在では3ヶ院17坊となっています。

平成26年(2014)には江戸時代の境内のうち、約44万6千m²(東京ドーム約10個分)と非常に広大な一帯が「慈恩寺旧境内」として国史跡に指定されました。

「木造十二神将立像」 「木造薬師如来及両脇侍像」
  

恩寺旧境内」とは…

平成26年(2014)10月、日本の仏教信仰の在り方を知るうえで重要であると評価され、旧境内地のうち一部が「慈恩寺旧境内」として国の史跡に指定されました。その本質的な価値は次の5つです。

写真提供:寒河江市植物愛好会

「慈恩寺旧境内」は、江戸時代まで認識されていた丘陵一帯に広がる境内地です。丘陵南端に、そのたたずまいを良好にとどめる堂舎や院坊屋敷地を核として、いにしえから連綿と続く慈恩寺の活動の痕跡が色濃く残されています。
「慈恩寺旧境内」は、土地に刻まれた仏教の姿とも言えるでしょう。

恩寺を知るのキーワード

江戸時代の慈恩寺には、本堂や三重塔があるエリア、院坊屋敷地が建ち並ぶエリア、修験道の修行場や山野のエリアがありました。当時の絵図によれば、境内全体の規模は南北5㎞・東西1㎞にわたるとあります。
さらに、境内の外に広がる寺領は江戸時代18ヶ村・2812石にも及び東北一の寺領でした。

資料画像内【赤枠 ▶︎ 国史跡の指定範囲】【黄枠 ▶︎ 江戸時代の慈恩寺境内】

慈恩寺は、本堂を中心にたくさんのお堂が建ち並び、院や坊とよばれる僧侶の住まいが取り囲んでいます。江戸時代の慈恩寺は、3ヶ院48坊で構成される大きな組織でした。

葬儀を行う一般的な寺とは違い、慈恩寺は法会、つまり仏教行事を行う祈りの寺です。慈恩寺の僧侶たちは法会を通して国や領主の安泰や平和、人々の幸福や作物の豊作を祈ってきました。

柴燈護摩会

さいとうごまえ

燈護摩会

 

このマークが付いている写真は寒河江市教育委員会の所蔵資料です。

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